2011/09/23

追記: 三島由紀夫

前回の投稿で、なぜその一節が興味深く感じられたのかという重要な部分を書いていなかったので追記する。

三島由紀夫はこのインタビューの中で、立派な死(or ドラマチックな死, 英雄的な死, 華々しい死)には"大義"が必要であると述べている。また、この"大義"には"理想なり何かのため"という説明を加えている。

この記事を読んだ後、私の頭の中に"社会貢献"というキーワードがふと浮かんだ。

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昨今、大学生を中心とする若者の間で"社会貢献"多大な関心を持ち率先してその問題に取り組むという傾向がみられる。各大学では途上国への学校建設や教育支援、環境保全といった活動を主とする団体・サークルが軒を連ねている。また、文科省は2010年に、奨学金の条件に「社会貢献活動への参加」を追加する方針を固めている。

確かに私の周りでもいわゆる学生団体による"社会貢献"に携わった経験がある人が多い。途上国の開発援助から環境保全活動と選べる分野も様々なので、文理を問わず様々なバックグラウンドを持った学生が多様な視点からおなじ"社会貢献"という概念のためにエネルギーを使っている。

そのエネルギーはどうやら若者の消費傾向にも反映されているようだ。バブル世代の消費傾向が車を買いたい、お酒のの場は必要だなど、外向きの傾向であったに対し、若者の傾向は「車を買うなんてバカなんじゃないの?」というキャッチ―な帯で知られる『「嫌消費世代」の研究(松田久一)』にみられるように、現代の20代は車を買わず、酒を飲まず、海外旅行にも行きたがらないという前の世代とは異なる消費の傾向があるようだ。

この非積極的ともとられがちな消費傾向は、たびたび社会のトピックとして取り上げられてきたが、ではその代わりに何に若者はお金・労力を使いたがっているのか。それが"社会貢献"なのだ。

今の20代は社会貢献やボランティアや環境問題などに関することならば、消費傾向が積極的になるらしい。しまいには社会貢献専用のSNSまで登場している。このSNSでは、寄付つきやエコ、フェアトレードなど、消費を通じた気軽な社会貢献につながる商品の情報検索、発信、共有ができるらしい。運営会社のヤラカス舘は創業115年の会社だが、現在の若者の消費傾向を如実にとらえ、ビジネス化しているといえよう。

参考:
ものを買わない若者たち…「久米宏・経済スペシャル"新ニッポン人"現る!」
ますます過熱する若者の社会貢献ブーム。就活シーズ直前、「社会貢献で飯が食いたい」大学生激増中!
嫌消費」世代-社会を揺るがす「欲しがらない」若者たち
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さて、このような今の日本社会にはこのように若者が社会貢献に多大な関心を払っている傾向があるようだが、この傾向に対する個人的考察をしてみたいと思う。

ここで三島由紀夫のあの一節に戻るが、三島由紀夫によれば、"人間とは自分のために生きるほど強くはない"のだ。大義がなければ、もしくは心の中に自分を超える価値が認められなければ生きていることすら無意味に感じてしまう存在なのだ。

この前提を用いると、現在のこの若者にみられる特筆に値する傾向の原動力も紐解けるのではないか。

日本人では従来、何らかの団体または集団に対する帰属意識をもってきた。縄文時代からのムラ、武士での奉公制度、また、歴史の中で長らく家長制度を代表とする一族の繁栄を目的とした生活が存在した。そこで人々は城主のためなり家のためなり、自分以外の何かのために生きることができ、そこに"大義"を見出してきた。

歴史が進む中で奉公制度はなくなり、戦後の高度成長期では、核家族化によって家長制度や家族のつながりも薄れてきた。しかしその変わり、高度成長期には代替とされるものがあらわれた。いわゆる企業戦士の登場だ。サラリーマンには企業に忠誠を誓い、企業の成長安定のために働くという風潮がみられた。ここで日本人は会社のために働くという"大義"を見出すことができた。

しかし高度成長期が終わり、今の日本社会は経済の停滞した長く終わりの見えない不景気の中にいる。転職やリストラ、さらには内定取り消しが日常語として話されるようになったことからも分かるように、企業はもはや絶対的に信頼して忠誠を尽くせるものではなくなった。

このように集落、家族、国、企業と日本人は常にどこか自分以外のものに帰属意識を持ち、それらに忠誠を尽くすことによって自らの価値を形成してきた。この結果が第二次戦争(悪果)にも高度経済成長(善果)にも影響を及ぼしてきた。しかし大義を見出すことが難しくなった現代、若者はどこに自分の居場所を見つけるのだろうか。その"大義"を見出すべく、アイデンティティーを確立すべく、多くの若者がもがいた結果、それがこの"社会貢献"がキーワードとなる社会の流れを生み出していると考えられはしないだろうか。


そして私個人は、この傾向を非常に好意的なものであると感じている。実際に自分自身も大学1、2年の時は学部の勉強やアルバイトはそこそこに、所属していたNGOや他の学生団体の活動やインターンシップ、自己啓発的活動に積極的に取り組んできた。そしてその結果、大切な人や機会との出会いがあり、世界が広がった。
そのような活動が理想的な社会と就職活動とのギャップを生み出してしまっているであるとか、ある種の宗教的様相を帯びだしてきているという議論もあるが、概してこのような活動に取り組むことは、"大義"をそこに見出し自分の価値を感じられ、社会への視野が広がり、そして何より社会の役に立っているという点で好意的な傾向であると言えよう。

私は一度考え始めるとあちらこちらに意見が散らばってしまうので、あまりまとまりのない文章になってしまったが、自らのいた環境をこうして考察してみることでその目的や価値を見出したり、私の課題である俯瞰的思考をトレーニングできればと思って書いてみた。

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