2011/09/13

アジア人日本人関西人やで私は。

先日、Brisbane River Fire(花火大会)に行ってきた。

花火が終わってからはPamelaと合流して私の部屋で約束の飲み会をした。
Pamelaはpresentation、私はmid semester examいくつかが終わったのでいわゆる打ち上げを兼ねて。

Pamelaは花火大会で嫌なことがあったようでかなりupsetしていた。

PamelaはIreneと花火に行ったらしいが、2人で歩いてたらオージーの女の子のグループがぶつかってきて、Ireneがよろける形になった時に、すれ違いざまに「fuck off Asian」って言われたらしい。他にも、ナンパされた時にも無視してたらAsianだからって暴言を吐かれたらしい。

Pamelaや私はともかく、Ireneは小学校上がる前から26歳の今までずっとブリスベンで育ってきて、中身はほとんどオージーなのに外見で判断されるなんて本当に I felt sorry for Irene ってPamelaは繰り返していた。


確かにこの移民の国にも差別はある。
私の友達もバス停で卵を投げつけられたことがあるし、私自身も夜歩いてたら後ろから来た車に水鉄砲かなんかで水をかけられたことがある。ほかにもアジア人だからって嫌な思いをしてきたことは確かに何回もある。彼らは私が日本人だからと明確に国まで判断して嫌がらせをしてきたのではないにしても、アジア人だから、白人ではないから嫌がらせを受けたことは間違いないだろう。


しかしよく考えてみよう。差別がある、これは事実だが、差別があるのが問題なのではなく、そのことに対して各個人がその事象に対し、どうアプローチしていくのかが問題なのではないか。どこの国でも世界でも、悲しいことではあるが、”差別がない”という状態は極めて不可能に近いだろう。人間誰しも他人に対し優位性を感じたいのは生物学的にも避けられない性質なのだ。

しかしそれで悲しんだりする必要はない。差別を受けたり感じたときに次にその人が起こすアクションが一番大切なのだ。もし差別を受け、それに対し憤慨し、特定の集団に嫌悪感を抱いたり、自らがまた他の集団に差別感情を抱いて自分がうけた傷を薄めようとしてしまうのではなく、その事実を受け入れ理解し、自らの行動でよい方向へ変えていこうと皆がすることが大切なのではないか。一度なにかに対して苦手な感情を持ったり嫌いになってしまったら、もう二度と先入観なしでそれに対して接することはできない。そしてそのマイナスの感情は一度落ち始めたらどこまででも落ちてしまうだろう。

人間は本来他人を下に見たり他人に嫌がらせをしようとする生き物ではないと思う、一度はじまった負の連鎖が水面の波紋のように蔓延しているだけなのだと思う。動物は成長するうえで様々なものを学び取っていくけれど、悪いものを学び取らない努力もしくは悪いものをいいものとして変換して学び取っていく努力をしていくべきなのかもしれない。

私がであった素敵なoriginをアジアにもつAmericanやAussieの人は、アジア人であることを笑いや話のネタにしたりして、ごく自然にちがうことを受け入れかつ否定もせず、おおらかに振舞っていたよ。
私もアジア人であることで排他的に扱われているのだと感じたり焦ったり必要はない。違うものは違う、そしてお互いを尊敬していく。私は私で私なりに他を尊重しつつ自分の国や町の文化や習慣も大切に、一生懸命やっていけばいいのだ。

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